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接触領域のリアリティ

カーボン(前回これを「炭素」と訳していたら、それはCO2のことだろうというご指摘をいただいたので、現象や過程を生み出すアクターとして、カーボンとよぶことにする。英語の論文では、だいたいCarbon~という感じででてくるので)が媒体になって広げるネットワークの中でも、カーボンクレジットという発明によって、それは巨大な市場に変化する。カーボンは交換価値、値打ちをもつコモディティとして取り扱われる。だから、それは梱包されて、届けられる。

 

それによってカーボンは脱コンテクスト化していくというのがひとつめの問題だったけれども、ふたつめの問題は、あるいはそれはこの問題の取り扱い方に関係するかもしれないが、地球環境問題というテーマでありながら、ズルズルと社会環境問題に変化していくことだ。

 

カーボンが脱コンテクスト化させられるのは、流れでなんとなくそうなるのではなく、意図的にそのように操作されているからだ。カーボンがコンテクストに埋め込まれた状態では、契約が結べない。地球を守ると言うのが、社会契約に変わっていくのが、カーボンの脱コンテクスト化の別の物語かもしれない。

 

京都議定書が提案したカーボントレードの枠組みは、ある種の悲しい前向きさからきた妥協だ。資本主義の精神の中でしか、環境の事に取り組めないのだ。言い方をかえれば、この話なら環境保全も悪くないでしょ?損はしないからさ・・・。

 

これによって政治的経済的な多様性をもったステークホルダーが出現する。かれらはカーボンの風船の中身を入れ替えたりしながら、地図の上にある森林をみている。トンという単位で数えられるそのガスが、どんな過程によって生まれたものなのか勘定に入れている余裕はない。数えている間に新しい風船が届く。

 

カーボンクレジット、REDDを取り扱うと、社会的な競合関係の複雑さにからめ捕られて、人間と自然環境の接触域のリアリティを追及する余裕がなくなるのだろうか。接触領域における生々しさは、結局科学技術でそれはブラックボックスのなかに閉じていきます、では話が足りない。

 

さらには、アマゾニアと保全という新たな軸も加えるとするなら、その広範なカーボン蓄積面積には、インディヘナが住んでいる。インディヘナは開発のコンテクストでも保全のコンテクストでも、地理的制約によって必ず問題になっている。地理的な当事者だが政治経済的には周辺にある。ねじれた関係・・・。

 

国際機関は放っておかなかった。ILO169宣言は、先住民の権利を承認することを国家の義務とする。かれらは自由な決定権をもたなければならないし、開発レジームに対して自らの優先権を打ち出すことが認められるべきである、と。

 

この話のあとにでてくるのが、先住民が保全をどう受け入れるのか決める権利があるというものだ。カーボンクレジットの交換主体である、つまりステークホルダーの一団体――権利は集合的に認められているが、共同体内の中心と周辺の問題には立ち入れない。開発と保全の交渉に関わる男性権力者は中心にいるが、エクアドルで川の異変に気づくのは周辺的な女性だった・・・――であるかれらの権利の問題がかかわってくる。かれらは「伝統的」「文化的」に深く自然環境と関わってきた。宗教的、社会的、経済的な関係をもって。

 

単純な比較をすれば、アマゾニアのインディヘナが環境といかに深くつながりあっているかという研究は、王道として存在し続けてきた。そのくらいこの森林と人間の接触のあり方は多様で複雑なはずなのだが、先住民研究のようなリアリティは、保全研究において数が少ない(と今のところ感じている。探し方がわるいだけかもしれないけど)・・・のだろうか。