失敗と思考

巨体をささえる足の先、小指の小さな骨が砕けたとき、もうその巨体は足を踏み出すことに失敗してしまうのだろう。普段この巨人は思考を駆使し、そのような末端機関を些末な一部として気にしていない、あるいはそこまで気が回っていない。

 

渡秘する前には、夏前に背景知識をある程度つけ、長期休みになったときにアマゾニアでのフィールドワークに一気に切り替えて問題をみつけだすと発表していた。指導教官は、今思えば見透かしたような微笑で、リマでできることを考えておけと、生意気な人類学学生に助言した。退屈な人だ。いや、そうだったかもね。

 

想定していなかった事態が起き、というよりも予想をたてるのが甘かったんだろうね、自分は未熟であるというのも相まって、結局フィールドワークができずに、12月と1月を過ごし、突然来週にSkypeでの発表が決まった。指導教員と顔を合わすのが気まずい。できなかったね、と言うだろうか。彼は直接何かどうこう言葉を投げてくるというよりは、なぜその言い方なのだという感じの言葉で指導してくる。リマでやれることという、もったいない、あるいはスケールが小さいと言いたくなるのは、実は外部要因を予想しきれない未熟さがあるから、常に着実な何かがある状態にしておけという意味だったのかもしれないと後になって感じている。

 

行ってみなきゃわからないだろ、という言葉はそのままはねかえり、文字通りの意味になってしまう。行くまでわからないでいようとしたからだ。

 

とにかくこの一週間は、地味な思考を続けるしかないだろう。民族誌的データと記述がないという、美しい言葉はこの際はふせて。マルセル・モースはあれだけの大著をどのような作業法で仕上げたのだろうか。

 

追記:

現在、エル・パイス紙に掲載されたミシェル・セールのエッセーを、つたない訳ではあるけども、文章構造の理解とアウトプットの練習として作業中。近日紹介できればいいなという予定。